＊

「東海道…怒った？」
「別に…そうじゃない」
　心配そうな山陽の声に、東海道が答える声は、案外に普通だった。なので山陽は、スポンジにボディシャンプーをつけて、東海道の背中を流し始める。
「人に洗ってもらうのも、気持ちいいだろ？」
「……そうだな」
　確かに、気持ちいい。普段は、自分の手の届かないところに、山陽は丁度いい力加減で、スポンジを往復させる。だが、このままでは、何か違う気がする。今日は、山陽の開業記念だったはずだ。確かに、好きにして良いとは、書いたが…。
「そうだ！山陽、私も貴様の背中を洗ってやろう！」
「……え？」
　一瞬動きが止まった山陽の目に、瞳をキラキラさせて振り返る東海道の姿があった。
「え、あ……うん。ありがとう…それじゃぁ」
　丁度、東海道の背中も洗い終わった所だし…と、山陽が頷くと、東海道が手を出す。手のスポンジを、寄越せと言うことらしい。
「あ、じゃあ……」
　気が付かれないように、ちょっとだけ瞳を泳がせた山陽は、東海道がうきうきしたまま、それを受け取るのを確認すると、さっさと背中を向けた。
「そっと洗ってね。山陽さん、肌弱いんだから。それに、お前案外力あるし…」
「わかっている」
　一瞬、山陽のうるさい言い方にムッとした東海道だったが、『力がある』と言われて、機嫌を直したらしい。
「そうか、貴様肌が弱いのか？」
「……東海道さん、変なこと考えてません？」
「開業記念の日に、そんなことはせん」
「…ありがとうございます」
　山陽は苦笑した。こう言うときは、東海道の鈍感さに、感謝しようと思った。

「よしっ」
　山陽の背を洗い終わった東海道は、そのまま自分の身体を洗って流した。成る程、そう言う魂胆もあって、洗うと言い出したのか。見ていれば、スポンジを山陽に渡し、東海道は湯船に入った。
　山陽も、さっさと自分を洗い、泡を流す。
「東海道、髪も洗ってあげるよ」
「私は、お湯に浸かったばかりなのだが…」
　困惑する東海道に、山陽は笑いかける。
「背中を向けて、仰向けになって、首をここにつけて…」
　山陽は、湯船の縁に畳んだタオルを置いた。美容院で頭を洗うようにしてやるというのだ。
「どうしても、洗いたいのか？」
　胡散臭そうな顔で、東海道は山陽を見る。
「好きにしていいって、言ったじゃん」
「……何かが、違う気がする」
　先程からの疑問を、東海道は口にする。“好きにしていい”と言ったことが、こう返ってくるとは、想像が出来なかった。
「…うん。だから、普段東海道が、させてくれない事…させて」
　湯船の端にいた東海道の頬に、山陽がそっと触れる。そのまま、湿って少し伸びた髪に、手を入れた。
「……山陽」
「東海道の髪…気持ちいいよ」
「……さんよ…う」
「早くしないと、のぼせちゃうよ？」
「か、髪を洗うだけだからなっ」
　東海道が、山陽に背を向け、言われた通りにする。見上げる形になった東海道の目に、山陽の顔が映った。
「……」
「じゃあ、目瞑って…」
「……うむ」
　言われるがままにすれば、さわさわと、山陽の手が軽く髪を触り、温めのお湯が掛けられた。
「お熱くございませんかぁ？」
　悪戯っぽく笑って言う山陽に『大丈夫だ』と、こちらは偉そうに答える。
　冷たい感触がして、シャンプーが付けられたのが、わかった。
　（…成る程、気持ちのいいものだ）
　山陽は器用だ。こういう事も、難なくこなせる。山形の器用さとは、また違うけれど。
　まだ、山形がいない時。雪や雨で、動けなくなった自分を、山陽は仕方なさそうに、運んでいた。最初の頃は、あんなみっともない姿を見せる事と、彼から感じる絶望感を、悔しく思った。それでも、仕方なく自分の面倒を見る山陽は、乱暴そうなくせに、変に器用だから……身体を温めて、服を着せてくれる手は、むしろ心地よかった。
　最近は、そうやって迷惑を掛けることもあまりなくなった。だから、少し、寂しい気もするが。

　もう一度お湯を掛けられ、軽くタオルで拭かれる。
「…ありがとう。さっぱりした」
　起き上がろうとする東海道を、山陽が止める。
「ダメ。まだリンス付けてない…」
「……リンス？そんなものは付けないぞ」
　自分は、Jrが買ってくれたシャンプーだけで済ましていた。彼がこれ一本で良いと言うから。そういう事に頓着しない彼のために、弟はリンスインシャンプーを買って渡していた。
「…つけとけって。後が違うから…」
「……わかった」
　もう今日は、抗議をしても無理そうだ。別に実害もないから、奴の好きにさせておこうと思ったのに。
（……この…香りは…？）
　いつもは付けない物に、感覚が敏感になったのか。先程から感じていた違和感の正体を、見つけた気がした。

「山陽…」
「なぁに？」
　鼻歌でも歌いそうな上機嫌で、山陽は東海道の髪を整える。
「貴様…何を使った？」
「……何の話？よし、これで、少し置いて…」
「…山陽」
　目を開ければ、目の前の男の顔は……笑っていなかった。
「山陽」
　その手が、東海道の後ろに撫でつけた髪に触れる。
「山陽！」
　起き上がろうとする東海道を、山陽の大きい手が押し止めた。
「じゃあ、リンス流すから…目ぇつぶって…」
「……おい、説明をっ」
　それでも、東海道は何とか頭を上げた。
　先程、山陽が別に持っていた袋に、入っていたのは、あのメタボカモノハシの弁当と、食後の道明寺と…山陽が何時も使う、ボディーソープ。シャンプーにリンス。全て、計画的だったのか。自分が、何時も使うバスグッズをわざわざ持ち込んで、自分と同じ香りを付けて。そして……。そこまで考えた東海道に、山陽の声が落ちる。
「今日は…好きにしていいんだろう？好きにするって……こういう事だ…」
「……」
　数秒山陽の顔を見つめる。初めは、眉間に皺を寄せて、文句を続けようとしていた東海道の顔は、今度は困惑した表情になり、何かに気が付いたように、目を逸らした。
「東海道？」
　東海道は、力を抜き、頭を湯船の端に戻した。
「…早く流せ。のぼせる…」
　目を閉じ、静かな口調で言えば、もう一度山陽の指先が、東海道の髪の毛を触った。
「……東海…道」
　声が掠れた。もっと、色々言われるかと思っていた。そうしたら、宥める言い訳など、いくらでも思い付くのに。どうして良いかわからず、山陽は東海道の髪を触り続ける。
「そんな声を出すくらいなら、初めからやるな…」
「…お前……」
「別に…イヤではない」
　東海道の言葉に、山陽の手が止まり、情けない表情になっていった。
　いつもは鈍感で、俺様で。山陽の苦労とか気持ちなど、知らない様に振る舞うのに。時として、何でも解っているような振りをする。多分、それは買いかぶりで、ただ語らないことで相手に与える“何か”を、本能的に知っているだけなのだろうが。
　それでも、東海道を好きだという自分の気持ちが、一方通行だけではないことに、山陽は安堵する。

　目を瞑ったまま、東海道は山陽の言葉を待った。待ちながら、山陽の見せた感情に、くらりとする。
　これは嫉妬だ。
　山陽には悪いが、そう思うと素直にうれしい。何故山陽がこんな事をしようとしたか、考えると単純に喜んではいけないのだが。

　今期は雪が多かった。何時間にもわたる、致命的な遅れはなかったものの、それなりに遅延はあった。業務終了に、雪ですっかり冷え切った身体を、宿舎に運ぶ日々だった。
　けれども、今期は全国的に雪が多くて。山形も東京まで来られない日が続いた。
　東海道が凍えて帰ってきて、無意識に山形の部屋に転がり込んでも、そこには誰も居なかった。けれども、解っていてもつい帰ってしまう。そこで、なんとか風呂に入り一晩寝る。

　そんな東海道に朝会えば、いつもと違う香りをさせているのだ。山陽としては、複雑な気分だ。
　だったら、山陽だって鍵を開けておけばいいと、上越辺りは言うであろう。だが、それは違うと思う。
　東海道には、自分の部屋の鍵は渡してあるのだ。それは、何時入ってもいいという意味だ。そして出来るなら、東海道の意志で、自分で鍵を開けて来て欲しい。

　そうやって、すれ違った想いは、こんな形として現れた。東海道としては、誰にも、山陽にも迷惑を掛けたくないだけだったのだが。

「山陽…」
　焦れて、もう一度名を呼べば、髪の中に手を入れられた。
「…東海道」
　声が、ひどく近くから聞こえた。けれども、東海道は目を瞑ったままだ。
　唇にそっと触れる彼を感じた。熱はすぐ離れてしまい、東海道は、掛ける言葉を思い付かなかった。
　目を開けるか、迷う自分に、もう一度優しい声が降ってくる。
「東海道…」
　それ以上、山陽は何を言って良いかわからない。

「山陽…」
　東海道が、ゆっくり瞳を開ける。
「私は、貴様の…ものだからな」
　ありえない言葉を吐き、東海道はうっすらと笑った。
　東海道は、山陽のものだと。返せば、山陽は、東海道のものだと言うことだ。
　互いに互いを縛る言葉。何よりも、二人は『繋がって』いるのだ。九州とは違う。最初から、東海道と繋がることを宿命付けられ、その為に生まれた。『東海道・山陽新幹線』と、並び称されることが普通。互いが直通しなければ、今の発展はありえない。何よりも、二人で走ってきたあの年月は、誰にも越えられないのだ。

「早く流せ」
「……うん」
　シャワーの音が、バスルームに響いた。

＊

「待ってたぞ…山陽」
　バスローブを着て、頭をタオルで拭きながら、東海道はソファで待っていた。その後から出てきた山陽は、腰にバスタオルを巻いて、肩にタオル。その山陽に、笑いかけた東海道の視線の先には、ドライヤー。
「仰せのままに…」
　どうせするつもりだったんだろう？と、東海道の瞳が言っていて、山陽は笑顔を見せた。
「その前に、貴様は服を着ろ」
「何で？」
「風邪を引かれては、困る」
「そうだね。まあ、また脱ぐんだけどね」
「…山陽」
　ジロリと睨んだ東海道に、山陽はドライヤーとブラシも持って近づいた。

　ふわりと東海道から香る、自分と同じ香り。自分の香りを纏った東海道は、ささやかな優越感を感じさせてくれる。けれども、案外つまらないものかも知れないと、山陽は気が付いてしまった。

「はい。終わり…」
　何時も通りに癖毛を整えてやれば、自然に一筋の毛が跳ね上がり、山陽は微笑ましく思う。山陽の髪も、あらかた乾いていて、東海道に続いて軽く乾かす。見れば、その間に東海道は服を着ていて、片手には、ミネラルウオーターのボトル。
「飲むか？」
　渡されたのは東日本の水事業ブランド『From AQUA』で、自社が大事な東海道にしては、珍しい選択だと、山陽は、彼の顔を見る。

「弟が…」
　山陽の視線に気が付いたのか、東海道が顔を赤らめ、言い訳をする
「…持ってきたの？」
「ああ。東の連中に、買わされたらしい…。余っているからと。風呂上がりにでも飲むように言われたから」
「……そう」
　多分、買わされたわけではないのだろう。あの、案外にしたたかな鉄道の始祖は、意味もなく何かをしない。東からこれを買うことで、引き替えに何かを手に入れたのだろう。が、今の山陽には、皆目見当がつかない。まあ、Jrが、兄である東海道新幹線にこれを持ってきた真意は、本当に、彼の言う通りなのだろうし。
　運行に関する知識と実績は、過ぎるほどに有能な東海道新幹線は、その他の事に、とんと疎い。疎いどころか、無能と言っていいくらいだ。
　だから、彼の日々の生活に、彼の周りが何かと世話を焼く。その事は、皆うれしいと思ってやっているのだ。文句を言いながらも、世話をするJrが良い例だ。
　ただ本人は、山形が昔評したように、それに無頓着なのか、良しと思っていないのか。それとも、大切にされる事に慣れていないのか。されることや、向けられる好意に、戸惑った表情をする。もしくは、迷惑そうなそれ。
　彼が、『動かなくなっては』皆が困る。だから、周りが気を使ってくれていると、東海道は言う。それは正しいのだが、純粋に自分が好かれていると言う事に、思い至らないらしい。
　これもその内、改める必要があると思いつつ、自分が焼く世話を、最近は結構無条件に受け入れてくれる東海道を、山陽は嬉しく思う。

「東海道……」
　所在なさげにしている東海道を、山陽は呼んで、手を伸ばす。そうすれば、案外素直に、彼は、山陽の腕の中に収まる。
　山陽は東海道を抱きしめた。
　ああ、これは、自分の香りだ。案外に、つまらないと思ってしまった物の正体。彼を抱きしめた時に感じる、東海道の香りが好きだった。山形のそれを感じることは、確かに業腹だが、自分と同じ香りが東海道からして、感じるささやかな優越感と、残念だという気持ちと。
　自分がしでかしてしまった事の結末を、山陽は自身で知ることになる。もう二度と、こんな馬鹿げたことなどしないだろう。
「ああ…お前だな…」
　なのに、腕の中のコイビトが、自分の背に手を回し、軽く力を入れてつぶやく。
「こういうのも……タマには良いな…」
　猫のように、頭を山陽に擦り付けて、うっすらと笑う。
　相変わらず、無意識に罪作りな男だ。
「……そうか。お前の部屋に、私のシャンプーを置いておけばいいのか」
「……へ？」
　唐突な東海道の言葉に、山陽は変な声を出す。
「よし。今度弟に届けさせるから、貴様のバスルームに置いておけ」
　山陽は、上がりそうになる悲鳴を何とか押さえた。そんな事になったら、自分は確実にJrに殺される。
「い、イヤ。俺が、買っておくから。銘柄解ってるから。それでいい？」
「…お前が買うというなら、構わんが……」
　不思議そうな顔で見上げる東海道に、山陽は口付ける。
「……山陽…」
　どういう意味で、東海道が言い出したのか、本当の所は解らないままだが、それでも一歩、前進なのかも知れない。

「で……どうするのだ？」
　このまま、こんな所で立っていては冷えてしまう。つい、東海道を抱きしめる心地よさにうっとりしていた山陽は、彼の言葉で気が付く。
「勿論……」
　にやりと笑うと、東海道の顔が、うっすらと赤くなる。
「お姫様抱っこ…していい？」
「その言い方！何とかならんか！！」
　相変わらずの表情で怒る東海道を、山陽は抱き上げた。

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