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名も無き恋
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その“彼”は、いつも車両の一番後ろ、車掌室の前にいた。 初めは、どこかの学生かと思った。だが、車掌と話をしているのを見て、鉄道省の人なのだと思った。鉄道員ではない…と、言うのは、何となく解る。だが、例えば列車が止まるとか、トラブルがあったときに、真っ先に駆けて、先頭車両…運転手の所に行くので、単純に省の人間ではないのだと、おぼろげに解った。が、どう見ても学生のようにしか見えない容姿。 「私は、ああ言う方は…少し…」 お付きのばあやが、咎めるような口調で言うので、彼女は、それ以上言うのをやめた。ただ、彼女の座る位置は、いつも最後尾の車両だったので、ばあやがどう思おうが、彼を見ていることは、可能だった。 横須賀線は、軍事路線として敷設されながらも、その通る場所の所為で、鎌倉などに住む裕福な家の子女が、東京に通うために乗っていた。彼女も、そんな女学生の内の一人だった。 彼女たちは、基本的に一人で出歩くことはなく、誰かしらが“お供”として付いた。それは、彼女のように“ばあや”と呼ばれて良いような、年齢の者だったり、年若い女中だったり。 彼は、どちらかというと、あまり真面目に見えない、ちょっと“悪”っぽい感じというか。そう言うところが、ばあやの不興を買ったのだろう。 潮に焼けた明るい色の髪を、オールバックにして、一部を後ろで軽く結わえる。そんな、本当に学生のようなくだけた格好も、見た目、険しい顔つきも、少女の目には、好ましく映った。少女は、そう言う者に憧れる時期もある。 “お付き”の者が、年若い女中の時は、彼女は、もう少し楽に、“彼”を見ることが出来た。彼女は、以前の“ばあや”の様に、否定的な事は、言わなかったので。それは、やはり年若い女中が、雇用主の娘、自分の仕える者の、歓心を買おうという意図があったにしても。 「あの方と…お話ししたい…わ」 夢見るように口の端に乗せるその言葉にも、お付きの彼女がやはり、諫めたりはしなかったので、彼女はすっかり、その気になった。 彼が、ただの乗客と話しているのを見た事がある。いつもは険しいその表情が、他の鉄道員と同じ様な、穏やかなものになっていた。 だから彼女は夢を見た。その年齢の、ありがちな妄想力で。 夜中じゅう考えて、彼に話しかける話題を考えた。あくまで乗客として。でも、印象に残るように。 東京までの道のり、彼女は何時もの席に座り、ちらちらと“彼”を見る。今日もきちんと、彼はこの列車に乗っていた。時々居ないこともあるので心配したが、今日は何時も通りだった。 彼…が、この列車に乗ることは、この乗客達には僥倖なのだと、鉄道員達だけは知っている。鉄道の具現化、付喪神。彼が乗り合わせた列車は、割合に事故が少なくスムーズに運行されるから。 東京について、彼女はゆっくり支度をした。 時間はある。彼はいつも最後に降りるので、彼の周りに人が居なくなるのを、待っていた。 が、今日は珍しく、外を眺めていた彼が、何かに気が付き、列車を降りた。 「……え？」 彼女も慌てて降りて見ると、彼は降りた場所から数歩、そこにはやはり黒い制服を纏った、彼と同じくらいの長身の男の側に行く。 彼よりも、少し年嵩に見える。上司なのだろうか。彼が軽く敬礼すると、その男は笑って呼びかけた。 「…横須賀」 その声に、彼の周りの空気が、穏やかになる。 彼女は、彼の瞳が、目の前の男だけしか映さないことを感じた。 あれは…見たことのある目だ。 自分の父親に付いている秘書。どちらかというと、英国あたりで言う執事みたいな物か。身の回りの世話も、色んな相談事も、何でもこなす。父親とそれ程違わない年齢の筈だが、家族はいない。何故結婚しないのかと、一度聞いたら『自分は、旦那様のお世話をするのに精一杯で、妻を迎えても、幸せに出来るとは思えない』と、答えが返ってきた。その時は、ぼんやりと、そんなものかと思った。 その彼が、時折見せる目。 彼が見ていた男は、穏やかな表情を見せる。 “彼”が、それで、報われていることを、彼女は知る。 そして、少女の短い恋は、終わりを告げた。 |
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鎌倉から通う女学生は、座る場所とかも、暗黙で決まっていた…らしい。 |
ONでの最初のスカジュニが、こんなんで申し訳ない。
でも、本人は書いてて楽しかった(^_^;